“異形”の襲撃以来、雅はほとんど眠れない日々を送っていた。
 敵の使った術の分析に基地のシステムの復旧。
 IDM隊員達の中に“異形”の術をかけられた者がまだ残っていないかのチェックにまで駆り出された。
 雅がタッチしていないところでも、パンク状態の医務室や、いつ動きだすか分からない敵対組織の看視……。問題は山積みであった。
 唯一の救いは、大炎帝の最終調整がすでに完了していた事だろうか。
 ふら付く足で自室へと戻ろうとした雅は、しかし休憩所の前で足を止めた。
「よお」
 もたれるようにして、小早川巧がソファーに座っている。
「…………」
 雅は軽く息を吐くと、自販機に向き直った。
 いつも飲んでいるスポーツ飲料を買い、無言で巧の隣に腰を降ろす。
「疲れた顔をしてるな」
「……巧さんと会わなければ、部屋で休憩をするつもりでした」
「ハハ、そいつは悪かった」
 巧は笑ってみせたが、彼もずいぶんとやつれて見えた。
 雅は自己嫌悪を感じた。
 今の自分の発言は八つ当たりだ。
 いや、もしかしたら……違うのかもしれない。
 ある事に思い至り、雅の気分はさらに沈んだ。
(私は甘えているのだろうか)
 どんな失礼な事を言っても笑顔で許してくれる巧に対して。
 甘えにしてはずいぶん屈折しているが、どんな形であれ、他人を自分に都合の良い逃げ道にする類は、もっとも雅が軽蔑する人種のはずだった。
「小早川さん」
「ん?」
 頭を切り替えようとして相手の名前を呼んだが、とくに話題があるわけでもない。
 僅かに考えた後、雅はほとんど思いつきで言葉をつないだ。
「“鬼王”という怪物を連れ去った“異形”の女性がいますね。大炎帝の話では名を“影渡り”」
「ああ」
「大炎帝の戦闘記録を調べていて気付いたのですが、あの女性を見た瞬間、巧さんの心拍数や脈拍、体温は不自然なほどに高まっていました。まるで……あの女性に見覚えでもあるように」
「…………」
 巧は相槌を打たなかった。
 窺い見ると、ひどく複雑な横顔をしている。ほろ苦い笑みのような、泣き顔のような、あるいは怒りを堪えているような。
「……すみません。聞くべき事ではなかったようです」
 雅は頭を下げた。
 対する巧は、手にしていたコーヒーをあおる。
「いいさ。俺は……十五の時まで特殊能力開発研究所にいたんだ」
 その名は雅も知っていた。
 超能力が世間で認知され始め、公的な研究も盛んになってきた時期に、ある企業が出資して建てた施設の一つだ。
 全国から孤児を集め、多くの研究成果を上げてきたが、五年前、その非人道的な実験の数々が明らかにされ、閉鎖を余儀なくされた。
 巧は今、二十歳のはずだから、閉鎖、あるいはその間際まで内部にいた事になる。
「世間が思ってる以上に、あそこはひどいところだったよ。正体不明の注射を打たれるわ、妙な機械に繋がれて電流を流されるわ……。おかげで超能力の扱いと車の運転は上手くなったけどな」
 すると巧が持つAランクの超能力や、メカの操縦時に見せる異常なまでの反射神経は、強制的に作られたものだったという事か。巧は……いつもどんな思いで戦っているのだろう。
「ま、それは置いておこう。あの施設で俺は、自分と同い年の女の子と会った。名前は藤沢杏奈。他の連中と同じように、家族をなくして連れてこられたんだが、俺と気が合ってね。施設を出たらどうしたいかなんて事をよく二人で話したよ。もしかしたら俺達は単に傷を舐め合っていただけなのかもしれないが、それでも、あいつがいたから、俺は未来ってやつに希望を持てたんだ」
 しかし、巧はそこで声を落とした。
「けど、俺達のした約束は、一つも果たされなかった。ある実験を境に、杏奈は俺の前から消えてしまった」
「消えて……しまった?」
「どんな実験が行われたのか、当時の俺は知りようがなかった。実験室にいたのは杏奈の他に、数名の科学者だけ。しかも実験は失敗で、何もかもが揉み消されたからな」
「………………」
「納得できなかったよ。昨日までは確かにいたヤツが、いきなり目の前から姿を消したんだ。原因も教えられず、死体さえ残らない。その時……俺はやっと研究所の脱走を決心した。俺一人の力じゃ、どうする事もできない。けど研究所の実態をマスコミや警察に訴えて味方に付けられれば、全ての秘密を暴く事ができる。そう考えたんだよ」
「…………」
「何度も失敗して、そのたびに罰を受けたが、それでも俺はやり遂げた。そして知った。杏奈が使われたのは、この世界と別の次元をつなぐ実験だった。施設は、大炎帝を召喚した術者や“影渡り”がやった事を、杏奈の能力でやろうとして……失敗した挙句、杏奈を次元の狭間に放り込んじまったってわけだ」
 雅は思い出した。記録によれば、以前、巧が次元の狭間へ飲み込まれた時、彼はひどく動揺していたのだ。
「見るかい? こいつが杏奈だ」
 巧は懐からカードホルダーを出した。そこに一枚の写真が挟まれている。
「これは……!」
 写っていたのは正面を向いた少女だった。元は何かの書類用なのだろう。背景は白く、飾り気のない服を着ており……だが何より雅が驚いたのは、顔が“影渡り”と同じだった事だ。
「そう、つまりはそういう事だ」
「杏奈さんは“影渡り”に身体を乗っ取られたのでしょうか」
「たぶん、な」
「……どうするつもりですか?」
「決まってるさ」
 雅を見つめる巧の眼差しは静かで……しかし同時に強い意志を宿していた。
 こればかりは譲れない、言外にそう告げていた。
「絶対に杏奈を助け出す」
「そう言うと……思いました……」
 答えながら雅は……胸が締め付けられる思いを味わっていた。
 今まで気付かなかった。気付かないようにしていた。
 だが、自分は巧を好きなのだ。
 自分の気持ちと向き合うきっかけが失恋など、あまりに皮肉で笑い話にもならない。
「ちょっと暗い話だったな」
 雅の内心になど気付かず、巧はソファーから立ち上がった。
「せっかくだから、綾の見舞いにも寄っていかないか」
「……佐倉さんは、まだ目を覚ましていないのですね」
 鬼王との戦いの後、綾はずっと医務室で昏睡状態に陥っていた。
「目の前で広哉をさらわれたのが、よっぽどショックだったんだろうな。けど、大丈夫だよ。もうすぐ目を覚ます」
「言い切るんですか?」
「何日間か一緒にいて分かったのさ。あの子も根っこの部分は俺と同じだ。大切な人の生きている可能性が少しでもあれば、それを支えに立ち上がるタイプなんだよ」
 気休めでも何でもなく、巧は本気でそう言っているらしい。
 そこからニカッと笑って見せた彼の表情は、もういつものものに戻っていた。



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