詩(うた)の記憶/Who knows−only time


「ズバリ、涼子さんのレイズはフェイクで、最後の一枚はハッタリ……そうでしょう?」
「その質問にお答えすることはできませんわ」
 まるで獲物を威嚇でもするかのように、ビシッ! という効果音がつきそうな程の勢いで繰り出された恵
梨さんのしなやかな二本の指を前にしても、ニコニコと笑っている涼子先輩はさすがだ。
 先輩の手元にはハートとクラブの5のワンペアがあるのみで、同じく7のワンペアが出来上がっている恵
梨さんに勝つためには5以外の数字でツーペアにするか、あるいは5を持っていてスリーカードにするしかない。
 ところがクィーンの5は既にわたしが自分の場に提示しているし、恵梨さんの自信満々な様子から見てス
ペードの5は彼女が握っている可能性が高そうだ。
とすると、涼子先輩はツーペアを完成させているのか、それとも恵梨さんの言うようにハッタリなのか……
そのどちらかは、ただいつものように温和な笑みを浮べている先輩の表情からでは全く読み取る事が出来ない。
これこそが本当のポーカーフェイスってヤツなのかもしれない。
「えーっと、他は……沙希ちゃんはブタで、麗奈ちゃんは大ブタだから問題なしっと」
「……そーいう言い方は止めてくださいです!」
 わたしの隣に座っている沙希ちゃんが、恵梨さんの言葉にぷくっとつやつやした頬を膨らませる。でも、恵梨さんの言う事は真実。
 一見するとフラッシュに『見える』沙希ちゃんに、スーツも数字もてんでバラバラなわたしの手札……こ
のままだとまともな勝負になりそうもないのは一目瞭然で、その証拠に涼子先輩のレイズにのらず、掛け
金−といっても、もちろん本当のお金をかけているわけではない。念のため−もコールのままで止めている。
「あと……あ、涼子さんのレイズにさりげなくのってる伏兵がいたいた!
ひょっとすると、ストレートでもかましてくるのかな?」
 今度は「ふふふ……」と悪女のような(少なくとも本人はそのつもりらしい)笑みを浮べて、涼子先輩の
隣に座っている亜麻色の髪をポニーテールにまとめた女の子を『脅す』恵梨さん。
 女の子の手元には8からジャックまでのカード4枚が綺麗に並べられている。
そして、女の子は「それは秘密です」とでも言うように、静かに微笑んでいた。
ふっくらと適度な丸みを帯びた輪郭に、奇跡的とも思えるバランスで配置された大きな鳶色の瞳や杏の花び
らを思わせる唇を備えた顔立ちには、やはり笑顔の方がよく似合う。
でも、すぐに心から笑えたわけではない事を、わたしは知っている。


「どうぞ」というアルト域の返事を聞いてから『ハザード統計学 綾摩研究室』というプラスチック製の札
がぶら下がっているドアを開けると、そこでは大学の研究室らしく書籍の山がわたしを待ち受けていた。
 それよりも驚いたのは、わたしが部屋の中に入ると自動的にシークレットドアで二重のロックがかかった
こと。おそらく、万が一という事を考えての処置なのだろう。
「呼び出したりしてごめんなさいね。その辺りの適当なところに座って」
 デスクから立ち上がった部屋の主である女性の声に従うまま、わたしは本の中に埋もれるかのように申し
訳なさ程度に置かれている応接セットの椅子に腰を下ろした。
「お茶がいい? それともコーヒー? もっとも、私の言う『お茶』は中国茶なのだけど」
 じゃあお茶の方を、と答えると、女性は軽い微笑めいたものを浮べて私に背を向けた。
 お茶の用意をしてくれている間に何気なく本棚を見回してみると、『ベイズ理論の応用と実践』とか『C
ox比例ハザードモデル』などの聞いたのない単語の並んだ専門書に混じって、『ラファエル前派の女たち』
や『アルフォンス・マリア・ミュシャ 波乱の生涯と芸術』といった表札からすれば場違いに思える本が
並べられているのが特に目を引いた。
 ミュシャといえば、本棚の隙間を縫うようにして『百合の聖母』のレプリカが壁にかけられている。
「ミュシャがお好きなんですか?」
「数年前に『スラブ叙事詩』の本物を見た時からかしら。特に彼の油彩画がね」
 そう言いながら彼女は焦げ茶色の陶器の茶碗と急須を載せたお盆をわたしの前に置き、彼女自身も椅子に
座ると、ガラス細工でも扱うかのような丁寧な手付きで琥珀色の液体をほのかに湯気が立っている茶碗に
注ぐ。すると、急須から流れ出た薫り高いお茶が、さらに温かそうな湯気を作り出した。
 いただきます、と言ってから茶碗に口をつけてみると、豊かな香りと丁度良い頃合の渋み、そしてほのか
な甘味がわたしの口の中でふんわりと広がる。
「あの子もお茶が好きみたいなんですよ。特に紅茶が」「そうなの?」
 自分も一口、お茶を口に含んでから、綾摩律子さんはやや色のついた眼鏡越しでもはっきりと分かる程度に眼を細めた。
 律子さんと始めて出会ってから二日たった今日、わたしが表向きの彼女の職場である聖アスタル学院大学
部の研究室に呼ばれたのは、他でもなくわたしが口にした『あの子』のこと−つまりわたしがブリキ人形
たちから助けた、あの亜麻色の髪をした女の子の事についてだった。
「お箸もちゃんと使えるところを見ると、多分日本人の血も混じっているんじゃないかと思うんです。家に
あった和服なんかも、上手に着こなしていますし」
「その辺りも含めて、検査の結果がそろそろ出る頃だと思うわ」
 律子さんは軽い微笑を浮べたまま、静かに言った。
巨大戦艦『ラストガーディアン』で会ったと時とは違って、チョコレート色のセーターにそれより少し薄い
色をしたコットンパンツというカジュアルな姿だったけど、どことなく威圧感のようなものを感じてしま
うのは、わたしが律子さんの『正体』を知っているからだろうか?
「ところで……」
 と、律子さんが何かを言いかけたのとほぼ同時に、デスクの上にある電話から着信を知らせる機械音が響
く。彼女は茶碗を左手で抱えたまま立ち上がると、オンフックの状態で会話できるように赤いボタンを押した。
「綾摩です」「氷室だ。例の嬢ちゃんの検査結果を報告する。その後で……ほら、あの心理学の先生に変わるからな」
 電話を通して聞こえてきたのは、ちょっとぶっきらぼうな調子で話す男性の声。
 その野太い声は、何となくだが受話器の向こうの相手はがっしりとした体格の持ち主なんじゃないかな、と想像してしまう。
「まあ、基本的なところから言えば人間である事は間違いない。ちなみに血液型はA型。
遺伝子学的パターンから見て、おそらく日本人と欧米人とのハーフだろうな。
特に何かを埋め込まれているとか、そういう形跡は見当たらない」
 相手が大真面目な調子で言うのに、わたしは思わず吹きだしそうになったが、顔色一つ変えずに聞いてい
る律子さんの表情を見てハッとなった。
「ごめんなさいね。正直な所を言えば、私は少し疑っていたのよ。あの子が『トリニティ』と何か関係があ
るんじゃないかと。だから、万が一の場合を考えて検査もあの子を収容してからすぐに艦内では行わなかったの」
 わたしが反射的に怖い顔を作ったのに気が付いた律子さんは、表情こそ少し詫びるようにしていたが、そ
の語調は非常に恐ろしいほど淡々としていた。
まるで、ありきたりの事務的な作業をしている人のような、ひどく単調な声色で。
「他には最近外傷を受けた形跡もなければ、脳のCT・MRI・SPECTでは記憶喪失に繋がるような器質性の変化はない。
俺の方からは以上だが、何か質問があるか? 特になければ心理学の先生に代わるが」
 相変わらずちょっと乱暴な口調のまま続ける相手の言葉を受けて、律子さんはわたしの方にちらりと視線を送ってきた。
 わたしが首を小さく横に振ったのを確認してから、律子さんは「ないわ。御苦労様」とだけごく短い言葉を返した。
「どうも、小鳥遊です。早速、本題に入りますが……」
 氷室さん(後でわかった事だが、この人は『ラストガーディアン』の医療主任だそうだ)から「心理学の
先生」と呼ばれていた男性が、代わりにスピーカー越しに現われる。
 この人はさっきまでの氷室さんとはあまりに対照的な声質の持主で、アルファ波が出ているのではないか
と疑ってしまうほどにソフトな声だ。
「様々なメンタルテストをしましたが、多少精神状態が不安定である事を除けば、特に異常はありません。
ただ、記憶障害の件については少々事情が複雑なようでして」
「複雑? それは一体どういう事なのですか?」
 律子さんは軽く眉間の皺を寄せて尋ねた。
「自分の名前や年齢すら忘れてしまっているのは、おそらく何らかのショック……そうですね、例えば彼女
が時間を飛び越えてやって来た人間だと仮定すれば、時間の壁を超えてしまった事による影響がもたらし
たような、いわゆる一時期的なもので『きっかけ』さえあれば思い出すと考えられます。
 ただ、名前だとかいった自分を表わす『記号』のようなものとは別に、自分がどういう人間でどんな事を
してきて、どんな事を考えていたのか……といった自分というものを形成するのに必要な記憶については
、私が尋ねてみた所ではただ単に『忘れている』のとは全然レベルが違うような気がしまして……」
「要するに、二重の記憶喪失という事ですか?」
「厄介でしょう? 一体どうアプローチしていけば良いのやら……。
いやいやいやいや……困りましたねぇ」
 小鳥遊博士の万策尽きたような声を聞き終えてから、律子さんは慇懃な口調で「御苦労様でした。今後も
よろしくお願いします」と告げて回線をオフにする。
 あくまで電話での接し方だが、律子さんは氷室さんとは旧知の仲のようだが、小鳥遊博士とはごく最近の
付き合いのような印象を受けた。
「御国守さん。あの後、あの子の様子に変わったところはない?」
 律子さんは茶碗を自分のデスクの上に置くと、わたしの方に身体を向けた。
「特に大きくは……やっぱり、まだ頭の中に霧がかかったように何も思い出せないって」
「『トリニティ』のブリキ人形に追われていた理由についても?」
 わたしが首を小さく縦に振ると、律子さんは小さく溜め息をついて落胆を隠そうとはせず、疲れたように色の付いた眼鏡を外した。
眼鏡を外した事で露になった、まるで真っ白な半紙の上に零れ落ちた墨のように知的で端整な顔立ちには似
つかわしいとはいえない右目から頬の辺りにかけて斜めに走る傷痕よりも、わたしの目を引いたのは同じ
くレンズの色に隠れていた目の上の隈。
 律子さんの焦燥感を端的に示しているその隈を見て、わたしは始めて気がついた。
 彼女があの子に一体何を『期待』していたのかを。
 少しでも手がかりが欲しかったのだ。『トリニティ』に連れ去られてしまった律子さんのお姉さん・那魅さんの手がかりが。
「さっき、小鳥遊博士が仰っていた『きっかけ』の事ですけど……」
 律子さんが眼鏡をかけ直すまで少し間を置いて、わたしは口を開いた。
 氷室さんとの間で交わされたやり取りを聞いた時は伏せておいた方が良いかなと思っていたのだが、その
理由が分かった今は逆に話しておくべきかもしれないと考え直したのだ。
「ほんの些細な事ですが、ひょっとしたら『きっかけ』になるかもしれないな、と思った事があるんです」


 フォークを手にしたまま、ぼんやりと女の子の顔を眺めながらわたしは考えていた。
(名前……そうよね、名前がないとやっぱり不都合よね)
「この子のお名前を考えた方がいいんじゃありません?」
 『ラストガーディアン』からの帰り道で、涼子先輩がポツリと呟くように言った。
 巨大ブリキ人形との戦いに巻き込まれる格好で気を失ったあの子の身体に特に異常が見られなかったため
、とりあえずは家に帰っても良いというお許しが出たのだ。
その時、問題の女の子はわたしの背中で眠っていた。
「でも、本当の名前を思い出したりした時に、混乱するんじゃないかと思うんです。
 それに仮に名前を付けるって言うのも、付けられる方にとってはあんまり気持ちがいいものじゃないんじ
ゃないかな、なんて考え始めると二の足を踏んじゃって……」
「麗奈ちゃんが言うのももっともだけど、愛称みたいなものにすればいいんじゃない?
 例えばヴァイオレットとかオスカルとか」
 恵梨さんの提案そのものは十分肯けるものの、大真面目で口にした例えにちょっとばかり『偏り』があり
すぎたため、涼子先輩とわたしの顔には乾いた笑いが浮かぶ。
 そして、案の定の事だがこの手のネーミングには『うるさい』沙希ちゃんから手厳しい突っ込みが来た。
「ダメダメ、恵梨さんセンスないですー! ここはやっぱりメーテルちゃんですー!!」
 ……ぶっちゃけた話、五十歩百歩な主張だと思ったのはわたしだけだろうか?
 そんなこんなで結局沙希ちゃんと恵梨さんとの鍔迫り合い(?)が続いたため、この話はうやむやのまま
終わってしまったが、いざ家に帰ってきてあの子と向かいあった時、改めて名前の必要性を痛感してしまう。
「ごめんね、今日は母さんと父さんがお稽古ごとの旅行で出かけちゃってるから、簡単なものしか作れなくて」
「いえ、麗奈さんの作ってくれたパスタ、とっても美味しいです」
 わたしの作ったパスタを食べている女の子はそう言って笑顔を見せてくれた。フォークとスプーンを器用
に動かして無心に食に勤しんでいる姿はとても愛らしく、言葉と裏腹な所は少しも感じられない。
 その様子にわたしは内心、ホッとしていた。
 ほうれん草の緑とサーモンの赤、そしてパスタの黄色で見た目にも鮮やかなこのスパゲティ、実はわたし
が『考案』した自慢の一品で、具材を炒める際に定番のガーリックと共に隠し味として顆粒状のコンソメ
を使うのがポイント。全体的にあっさりした味付けの中で広がるコンソメの風味とコクが、家族や友達の
間でなかなかの好評なのだ(ちなみに恵梨さんから『スパゲティ・コンソメパンチ』というレシピ名を頂戴している)。
 この子に気に入ってもらえたのかどうか、ちょっと不安だったのだ。
 それと、喜怒哀楽といったものをこれまであまり表に出さなかったのだが、そんなこの子が笑ってくれた
上に、珍しく自分の方から話し掛けてきてくれるのが何となく嬉しい。
「麗奈さんって何が好物なんですか?」といった他愛もない話だったけど、それはそれでこの子にとって意味があるように思えた。
 たとえそれがわたしに関する事であって、自分の事でなかったとしても。
 会話が途切れる事なく続いた一方で、二人の前に並べられたお皿の上の料理はきれいになくなっていた。
「デザートにケーキが買ってあるの。後片付けが終わったら、一緒に食べよ。
飲み物は……紅茶で良かったよね?」
はい、というように首を縦にふる女の子。ポニーテールにまとめた亜麻色の髪がその反動でふわりと揺れる
。わたしはその動きがちょっといつもより大きいかな、と思った。
 そして、それは決してわたしの錯覚ではなかった。
 わたしと女の子がほとんど同時にダイニングチェアから立ち上がった時には、机の上に並べられていた食
器や花瓶がカタカタと音を立てて奇妙なダンスを踊り始めていた。
「机の下にもぐって! 早く!!」
 言うまでもなくこれは地震だ。それもかなり大きめの。体感からすると、少なくとも震度4以上はあるようだ。
 わたしの言葉を聞いて弾かれたように机の下にもぐりこんだ女の子の傍に、わたし自身も身を寄せた。か
ばうようにその華奢な肩を抱きかかえると、地震そのものによる揺れだけじゃなくて彼女自身が小刻みに震えているのが分かる。
 ギシギシと嫌な音を立てながら家自体が激しくゆれ動くと共に電気が神経質に消えたり灯ったりを繰り返
し、バタバタという鈍い音からは本棚や箪笥といったあちこちから物が次々に落下していく様子が容易に想像できた。
 ついには、わたしたちの頭の上にいる食器たちも踏ん張りきる事ができずに、あえなく床に叩き付けられていく。
 本や棚が落ちるのとは違い、鋭く空気を切り裂くような破壊音がわたしたちの耳元で立て続けに鳴り響い
たのが、結果としてこの出来事の終わりを知らせる鐘となった。
「……お、終わったみたいね。大丈夫?」「はい……でも…………」
 揺れが完全に収まり、電気の明かりが安定したのを見極めてから、わたしと同じように傍で身を丸くして
いる女の子に少し上ずった声のまま話し掛けると、彼女は何かに傷つけられたかのような表情でわたしの方をじっと見ていた。
「麗奈さんの、肩から血が……」「え……?」
 鳶色の大きな瞳が見ているわたしの右肩を自分でも眺めてみると、確かに彼女の言うとおりザックリと裂
けた皮膚の間から赤い血が流れ出している。おそらく飛び散った食器の破片によるものだろう。
 自分で気がついてから初めて傷が痛み出すというわけではないのだろうが、血を見た途端に肩がしみるよ
うに痛み出し、思わず顔を軽くしかめてしまった。
「………………大丈夫、ですか?」
 気遣わしげな声と表情で、女の子はわたしの傷口に右手でそっと触れる。その瞬間、出血による熱とはま
た違った温かな感触が、わたしの身体に伝わる。もちろん、その温度は女の子の体温とも異なった性質を兼ね備えていた。
 そして…………あろうことか傷口に添えられた彼女の右手からごく淡い光のようなものが発せられたかと
思うと、わたしの傷は元から存在していなかったように跡形もなく消えてしまった。肩に走っていた、痛みと共に。
「これって……一体どういうこと?」
 かすれた声で独り言のように呟いてから、わたしは思わずわたしの肩に触れたまま動かずにいる女の子の掌に、自分の掌を重ねてみた。
 掌で感じるこの子の手の感触は、ついさっきわたしの傷を『癒した』時とはまるで別人のもののように緊
張と驚きのあまり逆に冷たく、じっとりと汗ばんでいた。
 そう……わたし以上に彼女自身が自分のした事に驚きを隠せず、一言も声を発せられないまま身を固くしていたのだ。

「さっきの事どう思う、カイザー?」
「私も驚いた。ただ、あの子が治癒能力のようなものを持っているのは確かなようだ。
それも自分の能力に関する記憶を失っていても、必要とされる時に意識せず発揮されるとなるとかなり強い力と考えるのが妥当だろうな」
「だとしたら、それがあのブリキ人形に追われていた理由なのかしら?」
「今の段階では、その可能性があるかもしれないとまでしか言えないな」
 すっかり散らかってしまった部屋の中を片付けながら、わたしは金の腕輪の姿になっているわたしの心強
いパートナー・カイザーとあの子の『力』について話し合っていた。
 テレビのニュースによると、先ほどの地震は震度5で震源地はわたしの住んでいる鎌倉にかなり近いところだった。
「何にせよ、かなり動揺していたわ……あの子」「そうだな」
 女の子は今でこそ平静を装って隣の部屋で本棚から雪崩落ちた本を片付けてくれているが、わたしの傷を
癒しくれた直後しばらくは茫然自失状態で、まるでフリーズしたパソコンのように全く動けないでいた。
(さてと、どうしようかな……)
 ダイニングの片づけが終わったわたしは、とりあえず女の子の元へと近づいていった。
彼女もまた、最後の本を棚に戻そうとしている所だったが、ふと手を止めて本に書かれている文章を興味深そうに目で追っていた。
「……その本、面白い?」「はい……この詩を前に読んだような気がして」
 彼女が手にしていたのはW.B.イェイツの詩集で、開かれているページにはイェイツの代表作ともいえる『妖精のうた』が載っている。
「"Who can say where the roads goes where the days flows-only time
And who can say if your love grows as your heart chose-only time"
(誰が知っているというの? 道が何処に向かっているのか 月日が何処に流れ込んでいるのか−それは時だけが知っているのよ
誰が知っているというの? あなたの心が選んだ愛がちゃんと実るかどうか−それは時だけが知っているのよ)」
 彼女は突然、本と両目を閉じると、厳かな調子で歌を歌い始めた。温かな暖色系のメロディーを刻む彼女
の歌声、そして歌う姿は穏やか過ぎるほどに穏やかであり、どこか遠い世界(くに)に誘われていくよう
な不思議な魅力に満ち溢れていた。
 まるで、彼女自身が常若の国から迷い出た妖精であるかのように。
 わたしも彼女にならって軽く目を閉じ、黙ってその歌に耳を傾ける。
「"Who can say when the roads meet that love might be in your heart
And who can say when the day sleeps if the night keeps all your heart
Night keeps all your heart who knows-only time who knows-only times"
(誰が知っているというの? いつ道が交わるのか その求める愛はあなたの心の中にあるかもしれないというのに
 誰が知っているというの? 何時その日が眠りにつくのか もし夜があなたの心をずっと覆ってしまっているのなら
 夜があなたの心をずっと覆ってしまっているのなら 誰が知っているというの? それは時だけが知っているのよ
 誰が知っているというの? それは時だけが知っているのよ)」
「いい歌ね。ひょっとしたら、その歌も思い出したのかな?」
 歌い終えられた最後の一節の余韻に浸りながら、わたしが聞くと、彼女は首を静かに縦に振った。
「……誰かに、この歌を歌ったような記憶があるんです。でも……」
 彼女はそこで唇をぎゅっと噛み締めるような仕草をし、イェイツの詩集を本棚に戻す。
「でも、それが誰だか思い出せないんです。どうして今この歌を歌いたくなったかも、わたしがどうしてこ
の歌を知っているのかも。イェイツの詩集を何時読んだのかさえも!」
 大きく見開かれた鳶色の瞳が潤み、もどかしさのあまりか強まる語尾……自分の中にこんなに強い感情が
生まれていた事に驚いたのか、彼女はわたしの顔を見ながら少しの間、言葉を失っていた。
「ごめんなさい……わたし…………」「謝る必要なんてないのよ」
 気がつくと、わたしは彼女を自分の胸の中で強く抱きしめ、その滑らかな亜麻色の髪を優しく撫でてやっていた。
 彼女もそれに抗う事なく、いやそれどころかわたしに全てを委ねるような格好で、涙声で時々しゃくりあげながら続ける。
 文字通り、彼女は今わたしに全てを委ねようとしていた。
「不安で……とても不安で仕方がないんです。
わたしがいる事で、麗奈さんや皆さんに迷惑がかかるんじゃないかって。
 わたしがあんな力を持っているなんて……自分が何処の誰かもわからないのに!
肝心な事は何も、何一つ思い出せないのに!!」
「ちゃんと思い出せたじゃない……素敵な歌の事を」「え?」
 わたしはそこで彼女の華奢な身体を支えている両腕に、もう少しだけ力を込めた。
「少しずつで良いの、焦る必要なんてどこにもないんだから。」


「詩(うた)の記憶、か……」
 わたしの話を静かに聞いていた律子さんはそう呟くと、視線をわたしの方から外し、部屋の隅にかかって
いる『百合の聖母』の方に何気なく眼をやりながらこう言った。
「あの子にとっての聖母は、貴女かもしれないわね」
 絵の中の聖母はたくさんの百合に囲まれながら両目を閉じ、口元に穏やかな微笑をたたえたまま、スラブ
の民族衣装に身を包んだ敬虔な少女を静かに見守っている。
 天上にいる聖母を囲う百合が純潔の象徴ならば、地上に入る少女が手に持つツタの葉の輪は記憶の象徴だという。
わたしは「もし、わたしがなれるものならば」とちょっと冗談めかした答えを返してから、こう付け加えた。
「それに、彼女はひょっとしたら常若の国から迷い込んできたのかもしれませんから」
「それがあの子の『名前』の由来ね?」
 律子さんの問いかけにわたしは微笑みながら黙って頷くと、彼女と同じように『百合の聖母』の姿を眺めた。


「だぁー! もう誰よ誰よ、この子に正しいハッタリのかけ方なんて教えたのは!!」
 恵梨さんが悔しそうに自分のカードを机に叩きつけながら叫ぶ。
 彼女が絶対ストレートだと踏んで勝負を避けたら、相手の手札はなんとストレートでも何でもない、わた
しと同じいわゆる『大ブタ』だったのである。
「妖精さんはいたずら好きって相場が決まっていますもの。ね、フェアリスちゃん?」
 恵梨さんが言うところの『正しいハッタリのかけ方』を伝授した張本人であろう涼子先輩と、その隣に座
る亜麻色の髪の女の子が示し合わせたようにニコニコと笑っている。
 そして、涼子先輩が口にした『フェアリス』こそ、わたしがこの子の愛称として名付けた名前だった。
 妖精のように可憐な容姿に、人を魅惑させる歌声を持つこの女の子にふさわしい愛称を、ということで英
語の"fairy"を少しもじってみたという訳だ。
 幸いな事に、彼女自身もこの名前を気に入ってくれており、周りへの定着−特に沙希先生の評価も上々で、わたしもとても喜んでいる。
「さて、もうひと勝負行きますか。今度は負けないわよ」
 カードを集めてシャッフルしながら、わたしはメンバーの顔を見回した。
 その中にいるフェアリスの顔にはまるで屈託がないし、彼女はここ最近、よく笑うようになったのがわた
しとしてはすごく嬉しいところだった。

 果して、フェアリスの本当の名前が一体どんな名前なのか……それは時だけが知っているのかもしれない。
彼女が歌う、歌の中にあるように……。

Fin.

<作者注>
お話の中でフェアリスが歌うのはEnya の『only time』(販売:ワーナーミュージック)。
なお、日本語訳は作者の手によるもので、CDのライナーノーツに掲載されているものとは少し異なる点を御
了承ください。

 

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