グッバイ、マイ・フェア・レディ 初夜/Primary direction,part1

<12月22日午後12時24分 京都市下京区旅館『夕顔』表構前>
「すっごーい! この旅館に泊まるの!!」
 地図とメモ書きを頼りにJR京都駅から地下鉄を使って辿り付いた宿の外観を目にするなり、綾瀬恵梨が目を輝かせて歓声をあげた。
 時代の流れをありありと感じさせる木造数奇屋造りの風雅な建物が目の前でどっしりと腰を落ち着かせているのだから、彼女が思わずはしゃいでしまったのも無理はない。
「でも、よくこんな素敵な旅館、予約できましたわね? 冬の観光シーズンでしょ?」
「教授(さずく)兄さんの大学の先輩がここの一人娘さんなんですって」
 水無月涼子の疑問に、この旅行の『発案者』である御国守麗奈が答える。
 今年は21日が金曜日にあたっており、例年に比べて冬休みが早く訪れるという幸運に見舞われている。そこで、この好機を利用して大学の関係で麗奈の兄・教授がいる京都に一度遊びに行こう、という計画が持ち上がった。
 日本でも有数の退魔師の家系に生まれた麗奈にとって『呪術によって守られし都市』とまで言われている京都は一度行ってみたい土地であったものの、兄が丸四年近く住んでいるにも関わらず、どういうわけか訪れる機会がこれまで全くなかったのだ。
 本来ならば家族と一緒に、という事になるのだろうが、麗奈の家の本来の生業は神社。お正月という『掻き入れ時』の準備のため一家総出という訳にもいかず、「それならお
友達といってくれば?」という母の一言もあって、神代沙希に恵梨、そして涼子といった
妖魔との戦いにおける仲間たちを誘っての『忘年旅行』を、という事になったのだ。
「さぞかし、由緒正しい旅館なのでしょうね」
「何でも創業は江戸時代にまで遡れるそうですよ。将軍も泊まった事が……」
「ねぇ、とりあえず中に入りましょうよ。わたし、もうお腹ペコペコですぅ〜」
自分の身体程もあるバッグを両手で支えている沙希が、いまにも倒れそうな表情で麗奈
と涼子の会話を遮った。二人ともこの手の歴史的な話題は好きなので、話し出すと止まらなくなるからだ。
 沙希の体力を著しく『奪って』いる、いかにも重たそうなカバンの中身が一体何のか直接尋ねた訳ではないが、恵梨が一度「持ってあげようか?」と言ったのを「これは沙希の命なんですぅ〜」とキッパリ断った事から、麗奈たちにはおおよその察しがついていた。
「朝が早かったもんね。あたしも恥ずかしながら、背中とお腹がくっつきそう」
 沙希とは対照的に一行の中でもっとも手荷物の軽い恵梨が、悪戯っぽく舌をペロリと出して沙希の訴えに同調した。
コンパクトな荷物もさる事ながら、麗奈たちがコートやらマフラーといった温かそうなものを着込んでいるのに対し、彼女は青い絹のワンピースの上に淡いベージュのカーディガンを羽織っただけという冬よりもむしろ秋っぽい出で立ちであるにも関わらず、あまり寒さを感じていないようだった。

天気が良いとは言え、海岸沿いに面している鎌倉と比べて四方を山に囲まれた盆地の中にある京都の冬は彼女たちにとって格段に堪えるはずであるにも関わらず、である。

 

そうですね、と恵梨のおどけた仕草にくすくす笑いながら、表構を通って清楚な雰囲気の中庭の方へと足を踏み入れる麗奈。
その矢先、出向こうとしていた玄関の方からほとんど不意にといってよいタイミングで宿の人と思しき和服姿の女性が姿を現し、麗奈たちの方へとゆっくりと近づいてきた。
「四日間ここでお世話になる予定の、鎌倉から来ました……」
「御国守の妹さん御一行だな? 当『夕顔』……いや、京都へようこそ。歓迎するぞ」
 麗奈が儀礼的に頭を下げて挨拶すると、豊かで艶やかな黒髪を背中まで伸ばした瓜実顔の相手は口元に微笑を浮べながら、麗奈の肩をポンと叩いた。
「あの……御月那魅(みづき なみ)さん、ですか?」
 微笑を浮べたまま、黙って頷く那魅。
藍色の和服に身を包み、『ろう長けた平安の姫君』という印象の相貌からすれば「そうですわ」という涼子のような言葉使いがしっくりくるのだが、先ほどのこの女性の口調からすれば「いかにも」と言う代わりに頷いた、と解釈する方が妥当のように思えてならない。
大学院生であるという那魅は教授よりも2,3歳ほど年が上だと聞いているが、彼女の雰囲気と容姿からすると、良い意味でもう少し年上であるように麗奈は感じた。
「立ち話も何だし、早速部屋に案内しよう。ところで昼食はもう取ったのか?」
「いえ」と麗奈が短く答えると、彼女はニッコリと笑いながら、
「それでは私もまだなので、もしよければ店で一緒に済ませよう。
京案内は食事の後で、という事でよいかな?」
と提案する。
はい、と目を輝かせながら二つ返事で答えるのは沙希と恵梨。涼子も嬉しそうな顔で「よろしくお願いします」と頭をふったが、麗奈だけが少しきょとんとした顔を見せた。
「京案内って、那魅さんがして下さるんですか?」
「そういえば教授さんの姿が見えませんわね。確か、このお宿で待ち合わせという事になっていましたのに」
 麗奈の意図に気がついた涼子が辺りをキョロキョロ見回しながら、口添えをするような格好で言うと、急に那魅の表情に苦笑いのようなものが浮かんだ。
「いや、実はちょっと厄介な大学の用事を彼に押し付けてしまって……まあ、その罪滅ぼしと言うか、御国守の代わりというか……とにかく、中でゆっくり話そうじゃない?」
 はっきりした口調にはあまり似つかわしくない、曖昧な内容のまま那魅は「あはは……」と乾いた笑いと共に、麗奈たちを促すかのように率先して玄関の方に歩き出した。
「……な、なんだかちょっと詩織さんチックな人ですね」
「でも、綺麗な人だね。これで言葉使いがもうちょっとそれっぽかったら、まさに『夕顔』って雰囲気よね」
「そうですわよね。ひょっとしたら、教授さんとは『いい人』な御関係なのでしょうか?」
「ど、どうかしら? 教授兄さんにそんな甲斐性があるとは思えないのだけど……」
 那魅の後ろ姿を見ながら沙希、恵梨、涼子の三人が代わる代わる自分の耳元でそっと囁いたのに、戸惑ったような表情を浮べている麗奈もまた、問題の那魅と同じように曖昧に答えるしかなかった。

 

 


<同日同時刻 京都市上京区京楠大学人文学部構内>
「……はっくしょん!」「……くしょんっ!!」
「大丈夫ですか、二人とも? 風邪でも引いたんですか?」
 前を行く二人がほぼ同時に大きなくしゃみをした事に、構内をもの珍しそうな目で見ながら歩いていた神楽悠馬(かぐら ゆうま)が目を丸くし、大事そうに手にしていたアタッシュケースを思わず落としそうになった。
「いや、急に鼻の辺りがムズムズしまして……」
「あたしもだ。誰かが噂してるな、絶対」
 取り出したポケットティッシュで軽く鼻の辺りを拭いた御国守教授から、余ったティッシュペーパーを分けてもらった神代詩織がさも面白くもなさそうにちっ、と舌を鳴らす。
「きっと会計の日傘さんあたりじゃないですか? 先輩、うちの部署の今年度予算を十月の段階で使い切っちゃったから、年度末の帳じりあわせが大変だって嘆いてましたよ」
「そんな事を言われても、こっちは月に平均二回の遠方出張を抱えているんだぞ……今回の京都出張だって、交通費ですら半分以上実費ときてる」
 部下の皮肉たっぷりな一言に、ぼやきで切り返す詩織。
 彼女達が属する警視庁特殊犯罪課・妖魔特別対策班はその名が示すと通り『特殊』であるために、警視庁以外の各道府県警には妖魔対策班に該当する専門部署が存在しておらず、その結果として全国各地から妖魔犯罪に対する出動要請が詩織たちの元に舞い込んでくる。
 詩織に同行することが多い神楽は「僕たち、まるで『Xファイル』のスカリーとモルダーみたいですね」などと冗談めいた事を言っていたが、少なくとも詩織が見ていた限りではあのドラマ内で主役のFBI捜査官二人が自分たちのように費用を気にしながら捜査をしているシーンは無かったはずであった。
「こんな事なら、無理にでも有給休暇を取って麗奈の誘いに乗ればよかったな……」
「麗奈ちゃんのお誘い? そういえば、この間珍しく麗奈ちゃんの方から先輩に電話をかけてきたような記憶が……」
 ポツリと小さく呟いたつもりが神楽の耳にしっかり届いてしまっていた事も含め、詩織はそこで一度深々と溜め息を漏らした。
「ああ。実は『忘年旅行』とやらに誘われたんだが、断ったんだ。あの頃、千葉の方でちょっともめていただろう? あの事件がいつ片付くか分からなかったからな
 まあ、どのみちこの京都出張でドタキャンしていただろうけど」
「……だったら、噂の主は麗奈かもしれませんよ」
 ちょっと唐突とも思えるタイミングで教授が口を挟んだ事に二人は「えっ?」と我が耳を疑いながら、ニコニコと穏やかな笑みを浮べている青年の方を見た。
 ちゃんとしたスーツ姿である神楽とは異なりジーンズにグレーのタートルネックセーターというラフな格好や書生っぽい仕草(もっとも教授は正真正銘の学生なのだが)にも関わらず、教授の方が神楽より少しばかり年上のように感じてしまうのは、その温和な雰囲気によるものかもしれない。
 ちなみに詩織の記憶が正しければ、本当の年齢はわずか1,2歳の差であるが神楽の方が上だったはずである。
「実は麗奈たちは京都(ここ)に来ているんですよ。行き先、聞いていませんでしたか?」
「行き先も聞かずに断ったからな」
 詩織は電話でのやり取りを思い浮かべながら苦笑を浮べて肯定するその一方で、神楽が思いついたように口を開く。
 彼等は『第二会議室』という札がかかっている大部屋の前に来ていた。
「じゃあ、御国守さんの言ってた『専門家』というのは麗奈ちゃんの事なんですか?」
「いえ、それは護符関係の事に関しては世界的な権威である……」
 そう言いながら教授が重々しい扉に手をかけてゆっくり手前に引きかけている最中より既に、部屋の中から不安を煽るような騒々しい『物音』が漏れ聞こえてきていた。
「廣島大学名誉教授の岸源五郎(きし げんごろう)博士の事です……」
 視界に入った人物を紹介する教授の声が段々と小さく、そして語気が弱くなっていくのが手に取るように分かる。 そこには小柄な白髪の老人が会議用の机に突っ伏したまま、まるで今が丑三つ時であるかのような勢いで高いびきをかいて眠っていたのだ。
しかも、老人が枕にしていたのは観光ガイドブックの類であるばかりか、むにゃむにゃと寝言で「この話はめんこいおなごがいっぱいじゃのぉ〜」などと呟いている始末だ。『仕事』をしに来ているような気配は少なくとも今の老博士の様子からは微塵も感じられない。
「……本当にこの方が護符関係の権威なんですか?
それに『めんこい』は廣島ではなく、秋田かどこかの方言だったはずでは?」 やれやれというのと羨ましい気持ちが半々、といった面持ちでわざとドンッ! と音を立ててアタッシュケースを机に置く神楽。
 詩織もまた、部下と同様の疑問を込めた視線を教授の方に向けている。
「ははは……実は僕もお会いするのは初めてでして。本当は僕の先輩の方が良く知っているのですが、『あまり関わり合いになりたくない』とか……でも、世界的権威である事は間違いないらしいのですよ。御本人がおっしゃるには世界を救った事もあるとかないとか」
 乾いた笑いを見せながらも必死にフォローする教授の言葉、特に前半の方に対して「さもありなん」というように真顔で詩織は首を縦に振った。
「何でもいいから、とりあえず起きていただきたいのですけどね。……構いませんか?」
 神楽はアタッシュケースの中身を慎重に並び終えると、周囲の様子が変わった事にも全く気がつかずに眠りつづけている岸博士の方を指差す。
 口調こそ丁寧だが、指差す仕草などからこの若い刑事が呆れ返っている事は明らかだ。
 詩織は「好きにしろ」というように肩をすくめると、神楽が机の上に並べた品々をじっと見据えた。
 まずは鉱石か何かから削りだして作られたと思われる人形が二体。
他の出土品がなければ新品なのではないかと思えるほど、異様なまでに黒光りしているそれらはどちらも掌を二つ重ねた程度の大きさで直立不同のようなポーズを取っており、顔にあたる部分が少し異なる事を除けば造詣にも大差はない。
人形の隣には素人目にも護符を張り合わせて編まれたものという事が分かる、広げると実に等身大を優に超えるサイズの布が丁寧に折りたたまれていた。
長い年月を経ていたためか変色は免れず、護符の文字も半ば消えかかっているものの、虫食いや破損はさほど目立っていない。
詩織には詳しい事は分からないが、その理由がおそらく布の傍に置かれている長い円筒状の筒にあるのだろう、という事はおぼろげながら理解していた。
一昨日、水道工事中にたまたま今宮神社近くのとある石碑の地下の洞穴から、彼女たちが目の当たりにしている奇妙な造形物たちが発見された時、布は円筒の中に丸められた状態で筒の中に収められていたのだから。
そして、これらの『アイテム』を守るようにして、鳥のような形をした異形の者−少なくとも、詩織の目にはそれが妖魔だと映ったのだが−の朽ち果てた遺骸が同じ空洞に埋められていたのであった。
(妖魔対策の手がかりになるといいんだがな……)
 詩織はそんな事を考えながら、部下と机に並べられた品々を等分に見比べた。
 人形や布にはもちろん変化はない。だが、神楽の方は気持ちよさそうに眠りこけている岸博士の耳元でメガホンのようにした両手をあて、今にも大声で何かを叫ぼうとしていた。

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